Get your kicks by Akkey

ROUTE66−−−
THE MOTHER ROAD

はじめまして、Akkey(アッキー)こと竹内章夫です。自称“ルート66の旅人”であります。ルート66 Photo Essayを連載することになりました。よろしくお願いいたします。
さて、いきなりコマーシャルで恐縮ですが、Massieこと益野英夫氏と共著の写真集“マザー・ロードとネイティヴ・ロード(Mother Road & Native Road of America)”(鹿砦社)をご覧の方には、おおむね頁を追ってお読みいただけるかと思います。もちろん、写真集なしでもお楽しみいただけるようにと考えております。では・・・・・・

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ルート66は8つの州を通過する  [写真集5頁→4頁]


ルート66東端のシカゴ・ミシガン湖畔
Chicago, Illinois. '94
1926年、ルート66は、中東部シカゴから西海岸サンタモニカまで大陸を斜めに横断、イリノイ・ミズーリ・カンザス・オクラホマ・テキサス・ニューメキシコ・アリゾナ・カリフォルニアと、8つの州を通り2,448マイル(約4,000km)、アメリカ最初の横断舗装道路として誕生した。斜めに横断とは上手く言ったもので(私が!)、なぜかというと、ルート66の東の端はミシガン湖であるため、正確には横断とは言えないそうだ。大陸横断とは大西洋岸と太平洋岸を結ばなければならないと言うのである。誰がって? 「US主要幹線道路番号付与なんたらオフィシャル委員会」が。
ルート66は、最初、東西幹線道路に与えられるべき100番以下で末尾が0の『US60』が提案されたが、完全な横断ではないとの一部の反対にあって、たまたま空き番であった『US66』に落ちついたのだそうだ。ちなみに現在のUS60は、
ヴァージニア州ニューポート・ニュースからカリフォルニア州ロサンジェルスまで、よく見ると成程横断している。そして、オクラホマ州ヴィニータ近辺ではUS66即ちルート66と一体化しているのだ。
前述『US60』の提案者“ルート66の父”と呼ばれるオクラホマ州出身のサイラス・エイヴァリー氏は、当時くやしい思いをしたかもしれないが、今となっては“シックスティ・シックス”このダブルシックスの響きこそが、人々の心を捕らえて離さない。
さて、開通以来、アメリカの苦難と繁栄を象徴する対向2車線の“マザー・ロード”は、1970年代に入ると増え続ける交通量に対応することが困難となる。やがて、より速く、より多くと、大量輸送の効率性を追求したインターステイト・ハイウェイの建設が進むと、ルート66は所々で分断、閉鎖、或いはその下敷きとなり、1985年以降ついに公式地図から姿を消してしまうことになる。
しかし、その大部分は州道や郡道等々に名称を変えて、今も隣町と隣町を結ぶ重要な道として存在する。たとえ地図からは消えようとも


ルート66沿道に立つ“ローチング・パッド LAUNCHING PAD(ロケット発射台)”という名のファーストフード店の巨大人形
Illinois. '94


新装なった「デキシー・トラッカーズホーム」。その名のとおり、給油所から、大型トレーラーの自動洗車装置、仮眠室、自動車部品、レストラン、土産物店、ゲームコーナー、ルート66ミニ博物館まで揃った、トラック野郎のハイウェイ・オアシスである。大型トレーラーがバックなしでUターンしている駐車場には驚いた。
Mclean, Illinois. '99
“ROUTE 66”の名はアメリカ人の心から消え去ることはないのだ。
マザー・ロードを東から西へ、この「東から西へ」にこだわるのは訳がある。古くは西部開拓者たちが、そして1930年代には、大恐慌と、膝まで埋まる猛烈な砂嵐に土地を追われたオクラホマ州など中西部の農民たちが、新天地と信じてカリフォルニアを目指したルート66を、同じ方角を向いて旅したいからである。
同じ方角を目指しても、物質的に満たされた現在、同じ光景であるはずがないと言われるかもしれない。しかし、当時の痕跡が残っていたり、まるでタイムマシーンのごとく、現役のままずっと沿道で暮らしている人に出会う事がある。
確かに、全く同じ光景などあろうはずはないが、一日の旅の終わりに見る夕陽は同じだ。その日の道中、人に親切にされたとか、いわれなき蔑視扱いをされたとか思い出すと、ダストボウル難民たちの郷愁と苦渋の思いを、僅かでも感じ取れるような気がする。ちょっと感傷的に過ぎるだろうか。
もっともルート66は暗い話ばかりではない。そういう歴史的背景のあることを忘れてはならな
いということであり、旅で目につくのは、むしろ、インターステイト・ハイウェイが出現するまでの、国のメイン・ストリートとして一世を風靡した、楽観的な古き良きアメリカの面影である。
近年、ルート66を愛する人々の粘り強い保存運動によって“母なる道”は蘇ってきた。このアメリカの歴史的な道を保存しようと努力している各地の人々と知り合ったとき、自分は日本人だが、なにか役に立つことはないだろうかと考えた。
そこで、まず、一人でも多くの人にルート66の存在を知ってもらおうと思い立った。思い立ったら即実行の私は、1999年に阪急芦屋川駅南の「ぎゃらりー藤」で写真展を開き、2000年終わりに冒頭の写真集を出したのであります。
最初ということもあって、話がちょっと堅苦しくなりましたがお許しを。次回からは、エピソード的に綴るつもりです。

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